L.Aのアイコン、ワッツタワーを大特集!(前編)

photogreedy.com, Discover Los Angeles,Flickr

ワッツ地区の中心にあるワッツタワーはアメリカ国内でも類を見ないユニークで印象的な芸術作品です。7つのアイスクリームコーンの様な形の彫刻作品、「塔」が空へ向かって高くのび、それぞれの塔が貝殻やソーダボトル、鏡や車輪などのパーツで装飾されています。都会的な風景の中でワッツタワー周辺だけは、どこか浮世離れした不思議な空気感が広がっています。

ワッツタワーのさらにすごいところは1人の男性が作り出したものだということでしょう。34年間かけて外部の助けを借りずほぼすべて自分で作業を行いタワーを完成させたというのですから、その忍耐力と粘り強さには驚かされます。

 

今回はそんな、他に類を見ない芸術作品ワッツタワーを大特集します。作り上げた人物サバト・ロディア氏にスポットを当てつつ、タワー誕生の歴史をふり返ります。前半、後半に分けてお届けしますのでお楽しみに!

Property of Discover Los Angeles
Alchetron

THE BACKSTORY

ワッツタワーの生みの親

ワッツタワーの生みの親はイタリア出身のサバト・ロディア氏です。1879年2月12日にイタリアの南西部にあるリボットリで生まれ、15歳の時にアメリカに移住してきました。南カルフォルニアに定住する前はフィラデルフィア、シアトル、北カルフォルニアを転々とし、サムという名前を使い、鉱山や工事現場で現場労働者として働いていたそうです。アルコール好きで知られたロディア氏はかなりカッとなりやすいタイプだったようで、政府のことやカトリック教会のこと、子供たちのことや、メイクが濃い女性のことになどについて頻繁に文句を言っていたといいます。

WORK BEGINS

ワッツタワーの制作が始まる


ロディア氏は1921年に兄弟の力を借り、ワッツ地区内に三角形をした敷地を購入しました。当時はワッツはまだL.Aの一部ではなく一つの街だったそうです。3番目の妻とともに敷地内の小さな家に引っ越しましたが、家は線路の隣にあり、騒音や砂埃がひどかったといいます。その影響なのかどうかロディア氏は何かにかき立てられる様にワッツタワーの制作を思いつき、没頭するようになります。仕事後、そして週末は時間さえあれば作品作りをしていたというロディア氏。妻のカルメンは、その姿に嫌気がさしたのか後に彼のもとを去ってしまいます。

4月3日の一枚はこちら!

サンタモニカにあるサード・ストリート・プロムナードの噴水です。

旅行客にも人気のエリアで、ストリートミュージシャンなどで常に盛り上がっています。

THE MAN WITHOUT A PLAN

プランなく進んだタワーの制作


ワッツタワーが、何かしらのビジョンもなしに建てられたと言ったら、それは語弊になるかもしれませんが、計画性がなかったことは事実です。デザイン画もなければ一定の製作期間をもうけていたわけでもなく、ロディア氏がただただ思いのままに制作を進めていったのです。ロディア氏はこれまでにいくつもの媒体から「なぜタワーを作るのにそんなにも時間と労力をついやしたのか?」という質問を受けています。これに対し、いくつかの答えを出しています。「作っている間は飲酒をしなくてすんだから。仕事をなくしたから。アメリカの人々が優しかったから。彼の妻が一番高いタワーの下に眠っているから。なにか大きなことをやり遂げたかったから。」だそうです。

Property of Discover Los Angeles
exquisitur,Flickr

IF YOU BUILD IT...

どのようにして建てられたか

 

ロディア氏は正式に建築やアートを学んだことはありませんが、長年工事現場などで培った知識と、彼の独創性により、極めて低い予算で精巧なタワーを作ることに成功したと言われいます。ロディア氏は、まず最初に鉄を好みの形に整え、まわりにワイアーをくくりつけ、その後薄いセメントをぬり、骨組みを作りました。足場はなかったそうで、高いところへはバケツで部品を運んでいたといい、命綱は窓拭きの清掃員が使うベルトとバックルのみだったというから驚きです。1933年ロングビーチでの地震の後は、骨組みを頑丈にさせることに力を注いだそうです。飽きやすく移り気のあるロディア氏は、ある部分を作り終えても、それに100%自分が満足していなければ壊して作り直すという作業も繰り返していたといいます。その結果が「Ship of Marco Polo」などの彫刻を含む現在のワッツタワーとなったのです。

...THEY WILL COME

シンボルとしてのワッツタワー


制作当初ワッツタワーはローカルの間ではすでに注目を集めていました。1922年生まれのジャズミュージシャンCharles Mingusは、ワッツタワーと一緒に育ったといい、多くのインスピレーションをタワーから得たと話しています。1940年代、ワッツ地区は黒人が中心のエリアとなります。これは人種差別がはびこるアメリカで、黒人の人たちが住む場所をおわれてしまったという背景も影響していました。そんな中、ワッツタワーは社会的弱者、そして恵まれない人たちのプライドのシンボルとして崇められる様になっていったのです。1965年におこった暴動Watts Riotsでは街のほとんどが破壊されましたが、タワーは奇跡的に傷一つなく守られていました。ちなみにタワーはHarold LandやDon Cherry、そしてTyreseといったミュージシャンのアルバムのカバーに登場していることでも有名です。